『ファイ phai φ 人文論集鳥取 電子版』は、遥かな未来への緩やかな移行。小舟の後ろの、扇状の航跡。さざめき戯れる、無限のさざ波。

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<講演録>
土井タイトル

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 はじめに

 ことしは尾崎翠生誕120年に当たり、このたび、今井出版から尾崎翠フォーラムの集大成として、『尾崎翠を読む』(全3巻)を出したばかりです。
 その『尾崎翠を読む』講演編Ⅰの「尾崎翠の生涯と作品」の冒頭で小倉千加子さんが断言されているように、尾崎翠は「鳥取県が生んだ最高の作家」であるにとどまらず、近代日本の有数の女性作家です。
 わたしが2002年に刊行した拙著『尾崎翠と花田清輝―ユーモアの精神とパロディの論理―』(北斗出版)は、翠再評価の口火を切った花田清輝とも関連づけて、ユーモアとパロディの精神という視点から尾崎翠論に一石を投じたものです。
 『尾崎翠を読む』の未発見資料・寄稿・論文編に収録したわたしの「ウルトラ・モダーンの世界 ― 尾崎翠の方法的な読みの試み ― 」では、尾崎翠の文学的特色を ①反自然主義とアンチ・メロドラマ ②ユーモアとパロディ ③モダニズムとフォークロア ④ジェンダーとフェミニズム ― の4つの観点から考察しました。
 それらを踏まえて、尾崎翠の代表作とわたしが考える ①「第七官界彷徨」 ②「琉璃玉の耳輪」 ③「映画慢想」の3作の魅力について述べたいと思います。

 1.「第七官界彷徨」

 「第七官界彷徨」には、ストーリーらしいストーリーもなければ、劇的に展開する物語もありません。しかも、登場人物は一人残らず片恋か失恋をしています。したがって、これはいわゆる恋愛小説とは全然性格を異にしていて、むしろ恋愛小説のパロディといえるような特異な小説です。
 「第七官界彷徨」には6人の風変わりな人物が登場します。すなわち、一軒の廃屋のような貸家で共同生活をする語り手の小野町子は、人間の第七官に響くような詩を書きたいと願い、飛び飛びに詩のノートを取って一人で文学修業にはげむ、ちぢれた赤毛の痩せた少女で、その名前は一世に絶する美人として名高い平安時代の女性歌人・小野小町のもじり、つまりパロディ化したものであることを小説の冒頭で暗示しています。
 分裂心理病院に勤める長兄の一助は、人の顔を見れば自分の患者にしたくなる心理医者ですが、ともすると自分自身が分裂心理病院に入院する資格を持ちそうな人物として描かれています。次兄の農学徒の二助は、自分の部屋にこやしの人糞や土鍋を持ち込み、その人糞をぐつぐつと煮て異臭を家中に振りまき散らしながら、蘚(こけ)の恋愛を促進する研究に熱中しています。
 また、町子の従兄で音楽受験生の佐田三五郎は、音程のおかしいオンボロ・ピアノで音声勉強をしていますが、よく脱線して自作のコミックオペラを歌う陽気な男で、落ち込んでふさぎがちな町子を励ます役を演じます。
 こうした風変わりな「ひと」たちを取り巻いて多様な「もの」たちが、小道具ないしは準主役として登場するのもこの小説の特徴の一つです。それらの「もの」たちとは、人間以外の動物・植物・鉱物たちのことで、動物こそ遠景に登場する烏(からす)や雀(すずめ)くらいで影が薄いものの、植物では蘚・二十日大根・垣根の蜜柑・窓辺の柿・浜納豆・かち栗・牛蒡(ごぼう)・稗(ひえ)など、また鉱物では人糞・土鍋・雑巾バケツ・古ピアノ・くびまき・たちもの鋏・美髮料・マドロスパイプ・ボヘミアンネクタイ・ヘアアイロン … と、実に枚挙にいとまがないほどです。
 これら沢山の「もの」たちは、ことごとく片恋や失恋に終る「第七官界彷徨」の登場人物たちの恋愛ないしは恋愛への模擬行為をたえずパロディ化し、それへの感情移入やカタルシスを阻止して、笑いに転化するという役割を担ってもいます。その最たる「もの」が「こやし」というわけです。
 「第七官界彷徨」は「彷徨」の題名の通り、主人公の町子の「彷徨」ないしは「旅」と考えてもいい。それは平安の佳人を連想させる町子とは別の名前をもった、もう一人の自分を探す旅といってよく、新しい世界や知識を求めて彷徨する一人の少女の成長と変容の物語という風に読めます。
 人が成長するとは自ら変っていくこと、これまでの自分から脱皮して別の自分に変容もしくは変身していくことを意味します。事実、この小説の町子の場合も、兄や従兄や隣人たちとの交流や会話を通して、あるいは兄たちの部屋の論文や書物を盗み読みするなどして、少しずつ未知の世界に足を踏み入れ知的にも成長していきます。
  それでは、『第七官界彷徨』の「第七官界」とは、いったい何を意味するのでしょうか。
 「第七官といふのは、二つ以上の感覚がかさなつてよびおこすこの哀感ではないか」、と町子は語ります。
 人間には五感と呼ばれる視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚があり、それらを感知する目・耳・鼻・舌・皮膚の五官が備わっています。この五感のほかに第六感というインスピレーションの世界もあることは周知の通りです。
 明治末期から昭和初期の散文に、「第七官」という言葉が登場するようです。むろん、そうした言葉の使用例の系譜関係や影響関係の探索も意味ある仕事ですが、「第七官界彷徨」の読みに関しては、『尾崎翠を読む』講演編Ⅱで日本大学の山下聖美教授が「尾﨑翠と宮沢賢治 ― 二人の不思議な感覚世界」と題して、岩崎純一さんの研究に依拠して明るみに出している「共感覚」の解明こそ、重要かつ斬新な課題だとわたしは考えます。
 「共感覚」は、一つの刺激に二つ以上の感覚が反応する状態、いわば五感が混ざり合っている状態のことをいい、いま学術的にも注目されて、自然科学系の学者と人文系の学者の共同研究が進んでいます。たとえば、画集を見ていると音楽が聴こえてきたり、ものを見ていると視覚の刺激から匂いが感じられたり、といった感覚のことです。尾崎翠はとりわけ匂いに敏感です。岩崎純一さんによると、古代の「におい」という言葉には嗅覚だけでなく、視覚、聴覚、味覚、触覚まで含まれていたそうです。山下教授は「第七官界彷徨」がこうした「共感覚」をめぐる、尾崎翠の「格闘」の軌跡とも言えるというのです。

 2.「琉璃玉の耳輪」

 尾﨑翠は映画に熱中したファンでした。しかし、翠はたんに映画を愛し論じただけではなく、自らも「琉璃玉の耳輪」という素晴らしい映画シナリオの草稿を書いています。
 これは翠が30歳の1927年(昭和2)3月ごろ、― ということは、『第七官界彷徨』発表の4年前ですが ――阪東妻三郎プロダクションへの応募作品として丘路子の筆名で執筆したものです。入賞に値するとして推敲を依頼されながら映画化が実現しなかったのは、まことに残念というほかありません。もし映画化されていれば、「シナリオ・ライター」尾崎翠が誕生し、その後の彼女の運命も人生も大きく変わったかも知れないからです。
 このシナリオは、名も明かさぬ謎めいた洋装の貴婦人から、中国人の三姉妹の探索を依頼された女探偵が、共通の目印たる琉璃玉の耳輪を手掛かりに、男装して名前も変え横浜の阿片窟に潜り込むなど、各地を転々としながら行方を追う、という探偵物の筋書きです。エキゾチックなモダン都市たる横浜や東京を舞台に、黒いベールの貴婦人、男装の麗人、旅芸人、女スリ、変態性欲の男など、さまざまな異形の男女が入り乱れて登場する、めまぐるしい仮装と変身のドラマで、追っかけと活劇の魅力をたっぷり含んだ、エンターテインメント性の強いアクション・ドラマといっていいかと思います。
 森澤夕子さんが『尾崎翠を読む』新発見資料・寄稿・論文編に収録した「「琉璃玉の耳輪」と変身について」で指摘されているように、「琉璃玉の耳輪」が執筆された昭和の初めは、「モガ・モボ」という言葉がはやり、モダンガールが大都会の街頭を闊歩した時代であるのみならず、「探偵」なるものが流行した時代でもありましたが、翠もこのいわゆる「探偵物」を手玉に取って、彼女の関心事でもあった変身・分身のドッペルゲンゲル(二重人間)のドラマの傑作を書き上げたのでした。
 ドイツ語の「ドッペル」(二重の)と「ゲンゲル」(歩行者)の合成語である「ドッペルゲンゲル」(直訳すると、二重の歩行者)という言葉も、大正から昭和初期にかけて『プラーグの大学生』『ゴーレム』『カリガリ博士』といったドイツ表現主義映画の輸入とともに、日本でも急速に普及してドッペルゲンゲル文学の流行現象を生み出したことは、拙著『尾崎翠と花田清輝―ユーモアの精神とパロディの論理―』で紹介した通りです。
 わたしは子供の頃から探偵小説の愛好家でして、いまでもテレビで毎晩ミステリーやサスペンスを観て寝るのが習慣で、このシナリオは非常に面白く賛嘆して舌を巻きました。それを読んだ夜、眠れなくなったわたしは深夜の時間の迷惑も省みず、「このシナリオをぜひ映画化してもらえないか」と浜野佐知監督にファックスしたほどで、『第七官界彷徨』とはまた別の意味で翠のもっとも重要な作品の一つであると考えています。

 3.「映画漫想」

 映画好きの尾崎翠ならではの仕事として、「映画漫想」も余人の追随を許さぬ卓抜なエッセイで、わたしも映画好きの一人で幼い頃から映画に親しんできましたが、これほど感性豊かで才気煥発な文章に接したことがなく、この翠の独特の映画批評には文字通り脱帽します。
 それは偏執に陥りやすい自らの性癖を告白しつつ、光と影の織り成す映画のディテール、俳優の身体の細部や所作を見逃さず、実に鋭く個々の作品を観察し批評しています。
 なかでも、チャップリンの『ゴールド・ラッシュ(黄金狂時代)』と『サーカス』を取り上げた「杖と帽子への愛」は、花田清輝と同様、この喜劇の天才の杖と帽子という持物に着目し、ドイツ表現派の戯曲から「帽子は人間を造ります。他人と区別します。我輩は帽子です」というメッセージを持ち出してきて、これをさらに敷衍して「帽子は彼の全身」であり「彼の創る全世界は帽子だ」とまで言い切りますが、このチャップリンにこと寄せた翠の杖と帽子への偏愛とフェティッシュな関心は、「象徴機能をもつ超現実的オブジェ」について語ったシュールリアリストのそれに近いように思われます。
 グロリア・スワンソンが「寝台に身を投げ、天上に向かつてはね上げた脚から靴下を剥いだのは、ぢき一昨日のことだけれど、[…]ズロオスから噴きだした脚の並列を見すぎてはもうたくさんと言ひたい古代心も涌く」と、むやみに女優を裸にする当時の流行を皮肉りつつ、ジョセフィン・ベーカーの痩躯を礼讃しているのも面白い。
 男優では「鋭角的美感で相通じるもののあった」ジョン・ギルバートと阪東妻三郎を並べて、その後の坂東妻三郎に「酒太りで猫の美を失ひ、鈍角化してしまつた」、と歯に衣きせぬ批評を惜しみません。色男のルドルフ・ヴァレンチノに至っては、「いつも正面向いてじつとしていればたくさんだ。動いて好いのは接吻の時だけだ、大根め!」、といった調子で辛辣な言葉を浴びせています。アンチ・メロドラマの尾崎翠の面目躍如です。

 4.ウルトラ・モダーンまたはポスト・モダーン

 尾崎翠の再評価の視点として、フェミニズムの先駆者との位置づけがあります。フェミニズムという言葉が日本でまだ使われていなかった大正末期から昭和初期とはいえ、『尾崎翠を読む』講演編Ⅰにおけるカナダ・モントリオール大学教授のリヴィア・モネさんの「サロメという故郷」を遠景に置いて、翠のナジモヴァへのオマージュのメタファを読めば、その意味が理解できます。短編の戯曲「アツプルパイの午後」は、パロディの手法によるフェミニズム批評の小傑作です。
 近年、尾崎翠をモダニストとする見方が有力です。米国オハイオ州立大学のウィリアム・タイラー準教授の編集で2008年にアメリカで出版された日本モダニズム文学のアンソロジー『モダニズム』には、尾崎翠の「詩人の靴」が収録されています。
 しかし、わたしは尾崎翠を単純にモダニストないしは近代主義者とする見方に賛成できません。なぜなら、尾崎翠の世界はウルトラ・モダーン、あるいはまた、ポスト・モダーンのはるかな先駆けとも考えるからです。
 それで思い出すのは、尾崎翠の再評価の口火をきった戦後批評家の花田清輝が戦後まもなく発表した独創的な太宰治論において、西欧的なものと日本的なもの、あるいは、近代小説とフォークロアの対立と闘争のなかから、まったく新しい国際的な水準をこえた超近代的な芸術を創造できると説いていたことです。
 この観点と方法にこそ、尾崎翠の「第七官界彷徨」のウルトラ・モダーンの世界の不思議な魅力を解く鍵があるように思います。それはまた尾崎翠をたとえばジェームス・ジョイスに引き寄せて解釈するさいの有力な参照枠ともなるでしょう。
 近藤裕子さんは『尾崎翠を読む』講演編Ⅰに収録した「尾崎翠における〈わたし〉― 転移と模倣― 」で、尾崎翠の小説に繰り返し出てくる「失われた恋・叶わぬ恋」のモチーフを取り上げ、そこでは手に入らないことが恋愛を成立させる条件であって、この仕組みを転移や模倣といった心理学の用語で説明し、「地下室アントンの一夜」の地下室がユングの「集合的無意識」の世界に近いとしたうえで、尾崎翠の文学には近代的自我あるいは主体の幻想に依拠したモダニズムを超える、ポスト・モダーンの驚くべき新しさがある、といみじくも指摘されました。同感です。
 最後に、尾崎翠の作品において、メランコリーな気分たる「哀感」が「滑稽」つまりユーモアと背中合わせに出てくることに注目したいと思います。わたしが『尾崎翠と花田清輝 ― ユーモアの精神とパロディの論理 ― 』で指摘したように、尾崎翠は「さみしさの脱構築としての戦略的なユーモア」によって、メランコリーにブレーキをかけ、ともすれば内部に閉塞しがちな人間の精神を外部に向かって解放しているのです。ここに、わたしはナルシシズムやセンチメンタリズムの対極にある尾崎翠の真骨頂を見るものです。

【註】本稿は、2016年4月23日に今井書店の本の学校(鳥取県米子市)で行われた第一回今井出版セミナー『尾崎翠を読む』出版記念講演会「尾崎翠を読む」をもとに書き下ろしたものです。

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【執筆者紹介】 土井淑平(どい・よしひら) 1941年鳥取市生まれ、鳥取市在住。元共同通信社勤務。著書に『反核・反原発・エコロジー』(1986年批評社)、『都市論』(1997年三一書房)、『人形峠鉱害裁判』(共著、2001年批評社)、『尾崎翠と花田清輝―ユーモアの精神とパロディの論理―』(2002年北斗出版)、『知の虚人・吉本隆明―戦後思想の総決算』(2013年編集工房朔、星雲社発売)など多数。論文に「政治的なものの復権―ハンナ・アレントに寄せて」(2000年冊子版『ファイ2号』コンパス社)など多数。尾崎翠フォーラム実行委員会代表として2001年より15年間「尾崎翠フォーラムin鳥取」を開催し、その間の講演・寄稿・論文などを集大成した『尾崎翠を読む』全3巻(今井出版)を、2016年3月に刊行した。土井淑平HP→ http://actdoi.com 尾崎翠フォーラムHP→ http://www.osaki-midori-forum.com

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ファイ phai φ 鳥取人文論集電子版No.1 :土井淑平「尾崎翠の魅力」


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